8ヶ国語を話すマルチリンガルの個人ブログ

生きていくことがスッとラクになる。『◯に近い△を生きる』

目次

△=変わった子

小さいころから「変わった子」と言われてきた。子どもの頃から何よりも目立つことが好きだった私にとって「普通」とは注目されないつまらないこと。「変わってる」とは人に見てもらえること。

産まれた時は逆子で仮死状態、予定日より1ヶ月も早く出てきた姉は幼少の頃とても病弱だった。小さくて身体が弱いから外へ出たら転んで怪我をする。家族で旅行に行ったら高熱を出す。両親は「この子をちゃんと見守り続けて育ててやらねばならない」と強く思っていたんだろう。4年遅れて産まれた私は健康で病気知らず。いつも活発に山を走り回っているような子だった。両親、特に母の目は“見守らなくても大丈夫”な私からはそれがちで、姉を見ていることが多かった。小さい私はそんな大人の事情なんて知らない。

「ワタシここにいるよ、ワタシを見て」
小さい頃はただ、親に見てもらいたくて褒められたかった。それがいつしか私の価値観となり、より目立つこと、新しいことを追い求めるようになった。

”出過ぎた杭は打たれない”と言うけど、中途半端に出ていた私は打たれまくった。「なんやわからんけど、あんた若いのにおもろいなぁ」応援してくれた大人はたくさんいたけど、同年代の友達なんてずっと一人もいなかった。

無意識に△を貫いていた時代

10歳の時、演劇に出会った。朝日新聞に出ていた劇団の広告を見て応募し、オーディションに参加、両親に直談判して入団。
15歳の時、高校受験に失敗して第三志望にも入らなかったような学校に入学。学校に行きたくないからと留学ジャーナルの広告を見て応募、面接を受け、家族会議を経てイギリス留学。
19歳の時、アメリカで出会ったITという”新しい技術”を使いこなしている(ように見えた)現地の学生を見て「日本人として負けるわけにはいかん」と、4年のアメリカ留学に。

いわゆる優等生になるのはイヤだった。でも褒められたい、見られたい。だからいつしか私は◎ではなく“別解”を求めて△の道を歩み始めたんだろう。

◎をようやく放棄できた時、道が拓けた(かも)

“普通の子のフリして生きる”ことをやめた18歳の時、関西外大に入学して初めて仲間と呼べる友達ができた。「海外に行きたい」「英語が好き」だけが共通点。10代の頃の私が「どうせ打たれる杭ならとことん尖って生きよう」なんて思ってたはずはないけど、○く生きる努力をやめて、△(尖)って生きることを決めたらいろんなことがスムーズに進み出した。

もちろん20歳からの私も時々○になろうとしてその度にくじけたり悩んだり落ち込んだり。ようやく最近○になることを諦められた。今でも時々、優等生になりたい私が顔を出すけれど。大抵のことは△でいいんだと思えるようになったかな。

タラレバ話はあまり好きじゃないんだけど、でも言わずにはいられない。「10代の頃にこの本に出会えていたら」もっとラクに生きられたかな?どうだろう。いや、やっぱり今出会ったからこそ、ここまでいろんな経験をしてきたからこそ、この本のメッセージがしっかり胸に届いたのかもしれない。

△を貫いて、打たれ強い出る杭になる

最後に、本著から一部引用。

打たれ強い出る杭になりたい

 今までの慣例を壊していくと必ず、後ろ指をさされたり、批判されたりする。どんないいことでも必ず一割くらいは水をかけてくる人達がいる。後ろ指をさされても気にしない。それが人間というものだと、初めから割り切っている。
 ぼく達の国は民主主義の国だから、いいのだ。どんなにいいことをしても、批判をする人がいていい。だが、その口を封じてはいけないのだ。
 打たれ強い出る杭になることが、今の日本で生きていくためには大事。

私の周りには△(尖)った人がとにかく多い。みんな凹むことないのかな・・・辛い時には誰かと絶対会った方がいい。そうでない時にはこの本を読んで勇気を奮い起こすのもいい。