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『日本国紀』から学ぶ、現代日本の基礎は江戸時代にあり

『日本国紀』から要約する日本史第一弾はこちらをクリック

マルチリンガル式『日本国紀』から要約する日本史第二弾は江戸時代です。武士が統治する時代になってから四世紀、弱肉強食の時代に突入していた狭い日本はこの時代に台頭していた戦国大名数十という国に分断されていました。戦に疲れ果てた時代に彗星の如く現れたヒーロー3名、大河ドラマ等では大人気の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が日本統一に要した期間はわずか30年。(諸説あると思いますが、ここでは信長が足利義昭を京都から追放した1573年から、家康が征夷大将軍となった1603年までで計算)。その後日本人は大きな戦争のない有史上もっとも平和な時代を260年近く享受します。細かく見ると面白い時代なのに、その他の時代に比べて大きなドラマが少ないからでしょうか。大河ドラマでもあまり見かけないような、、、

1つの国となって情報が一元化、あらゆる制度が整った江戸時代

国がまとまるということの最大のメリットは、情報の一元化でしょう。例えば、西の西さん、東の東さんと日本が分断していたとします。それぞれが、我が勢力はここまでじゃい、と記した書物を残していた場合、絶対に被っているエリアがあるハズ。つまりどちらの勢力も、ワシの土地、と思っているのだけれど、そのエリアの人がどっちにもいい顔してたりして実はどっちでもなかったり、といったことはよくある話です。

それが中さんという人が西も東も統一しちゃうと、みんな中さん中心に情報が集まるので、より精度の高い情報が集まるだけでなく、正しい情報管理ができます。これは国を治める意味ではとても重要で、江戸時代初期は多くの制度が整います。

15代一家族によって統治された平和な時代

1603年に江戸幕府が開かれてから1868年までの約260年間に渡り、15代一家族によって日本は統治されたこの時代を江戸時代と呼びます。初めの40年弱は幕府による統治を完全なものにするための制度作りが行われました。主な制度としては、公家や寺院など他の有力勢力を封じ込めたもの、税金(農民による年貢)の制度、貨幣制度、鎖国と貿易制度があります。またもう少し後になりますが、細かな土地測量が行われ国土が把握されたことから、街道整備、治水(上下水道整備)、土地開拓などの国家事業が進められました。公ではないものの学校制度(寺子屋)が整い、江戸では70%以上の就学率を誇ったというのもこの時代の特徴です。

皇族、公家を除く国民は、特権階級の武士、それ以外の農民、町民(工・商)に分かれ、人口比としては7:75~83:10~17くらいと言われている。この時代の日本における農民の立場として特筆すべきは、彼らが原則として自作農だったということです。江戸初期より農民は税金として収入の10〜30%を納めていましたが、商いを行う商人への税金が課せられるようになったのは、もう少し後のことです。

江戸初期の幕府の主な財源は農民からの年貢の他に、金銀銅山から産出される鉱物があり、幕府はこれらの財源を使って精力的に街づくりを行いました。尚、これらの鉱物は江戸中期以降は採掘量が大幅に落ち、今日の日本ではほとんど採掘されていません。

武士は将軍家である徳川家を筆頭に細かく役職とそれぞれが治める土地が定められ、それらは世襲制でした。260年も一家族による統治が続いたのは、後から徳川以外の一家が権力を脅かすことがないよう、部下である大名たちには江戸内に屋敷を持たせ妻子を江戸に置き、家長は国と江戸を一年おきに行き来させました。行列や江戸屋敷の規模も幕府により定められたことから、それらの維持費はやがて大名たちの財政を逼迫することになります。

江戸時代とは、特権階級の武士による統治の時代ですが、同時に江戸城下に住む町人文化が花開いた時代でもあります。江戸時代初期は全人口1200万人(諸説あり)中、15万人程度と言われた町人の数は、江戸後期になると全人口3000万人中、50万人まで増えました。江戸の七割は武家屋敷、町人は残りの三割の土地に住んでいたので人口密度が高く、日本の家屋は木造建築であることもあり火事がよく起きました。そのため町人は財産をモノに変えず、コトにお金を使いました。宵越しの金は持たない、と言われるほど町人がお金を芸術鑑賞や外食に使うことから、町人による町人文化が発展したのです。この時発展した代表的な文化は歌舞伎、浮世絵、人形浄瑠璃、そして出版です。

先述の学校制度とは非公式ながら、僧侶や主人をもたない武士、家督を息子に譲った武士が、家などで算数・読み書き・古典・歴史などを教えていた制度で、これらの学校(寺子屋)が幕末には全国に1万5千もあったとされ、江戸での就学率は男女含め70%以上でした。識字率が高い日本人は知識欲も高く、江戸時代を通した発行部数は一千万部(60万部発行された年もある)と言われているそうです。グルメガイドやレシピ本もあったとようです。尚、この時代のベストセラー小説は歌舞伎や浄瑠璃の演目として、今でも目にすることができます。

一部の国を除いて外交、貿易を行って来なかった日本は立地の利もあり、独自の文化を発展させ200年以上の平和な時代を享受、世界の中心国(ヨーロッパ)による植民地支配からは逃れていたものの、十八世紀末にヨーロッパで始まった産業革命をはじめとするテクノロジーの発展からは取り残されました。1840年以降は毎年のように外国船がやってきて通商を迫ります。彼ら(特にアメリカ)の目的は、日本近海で盛んに行われていた捕鯨の連絡・物資補給地としての利用でしたが、幕府は頑なに拒み続けます。

旅好き、グルメ好き日本人の原点は江戸にあり

江戸初期、日本全国に街道が整備されたことによって大きく発展したのが旅行業、郵便業です。(業というほどではないかもしれませんが、笑)この時代に整備された主要五街道を含む多くの街道は、武士が江戸と国との行き来に使うだけでなく、庶民も利用しました。街道沿いには宿場と呼ばれる駅を中心に町が形成されました。特に主要な街道は大名が通ることもあり、手入れが行き届きよく整備され、女性一人でも旅ができたほど安全でした。庶民が旅に出る際は概ね、神社仏閣参拝というのが理由でしたが、他にも湯治、観光で温泉地や大阪、京都を訪れる人もいたようです。

個人的にここまで『日本国紀』を読み進めてきて驚いたのが、江戸の外食産業。江戸後期の人口100万人(町人50万プラス武士や僧侶)に対して7,000軒も飲食店があったというからビックリ。家が狭かったから台所がなかったのかしら、火事が怖くて火を使わなかったのかしら、やっぱり参勤交代で付いてきた下級武士が単身赴任だったからかしら、と妄想は膨らみます。(後で文献探して読む)ちなみに現在の東京では人口約1,380万人に対する飲食店の数は8万数千軒だそうです(平成三十年)。個人的に日本人は庶民レベルまで旅好き、グルメ好きだと思っていますが、その原点は江戸時代にあったのかもしれませんね。

さて、古代から江戸時代まで進んできた『日本国紀』、ここまでで505ページ中228ページです。次は激動の時代、幕末〜明治維新。