8ヶ国語を話すマルチリンガルの個人ブログ

江戸町人の食文化が今と変わらなさすぎて面白い

江戸時代発行のレシピランキング

奈良出身の私は自称他称奈良びいき。京都にはメラメラと対抗意識を燃やしてしまう(笑)し、都内の神社仏閣は当然、鎌倉の大仏でさえも「フンッ、オリジナルは奈良だけどね」と言って憚りません(私が建てたんじゃないけどね)でも江戸は好き。好きな理由は主に2つ
・時代が新しく、一般市民が書いた記録が多く残っている
・手に入る情報が、施政者など特権階級だけなく多岐にわたる

平和な時代が続き、寺子屋普及によって江戸に住む人の就学率は70%を超えていたと言われています。男女の就学率は地方の100:25に対し、江戸では100:89と女子の比率が男子とほぼ同数。この時代、どこの国を見渡しても男女分け隔てなく教育の機会が与えられていたのは、驚くべきです。就学率が高いと言うことは、識字率が高いと言うこと。この時代の本は木版印刷が主流なので、1冊あたりの書物を作成するには今の価値で8,000円〜10,000円もしたそうですが、グルメガイドやレシピブックも数多く出版されていたそうです。

目次

マルチリンガル式、江戸の食文化まとめ

日本人がグルメなのは江戸の町人文化にあり、と気になって書籍を調べてみると、すごくたくさんありました。それらのうち数冊から、江戸時代の食文化についてまとめてみたいと思います。切り口は「江戸時代の日本人が食べていた食事と、今の”伝統的な”あるいは”オリジナルな”と呼ばれる和食がどう違うか」。もちろん、これらのウンチクは来日されるお客様に、天ぷらやお蕎麦を食べながらご説明する用です。

庶民の食卓は一日二食、朝食は白米と漬物と納豆味噌汁

お味噌汁のことを、御御御付け(おみおつけ)と呼ぶ人はどのくらいいるのでしょうか?我が家では母がそう呼んでいました。江戸時代まではお味噌は高価だったので、御が3つもつくほど貴重だったとか。具に大根、菜っ葉とネギを薬味に作ったお味噌汁にひき割り納豆を加え、朝から炊いた白米5合のうち炊きたて半分を食べるのが典型的な朝ごはん。

一汁三菜といえば、お味噌汁と副菜3品ですが、庶民にも広がっていたようです。江戸後期頃発行と推測される『為御菜』(冒頭画像)は、節約レシピ番付表、言うならば江戸版クックパッドランキング。ここに記載されているお料理の中には、メザシ、アサリやハマグリと切り干し大根を煮たもの、きんぴらごぼう、小松菜のおひたし、煮豆、けんちん、冬瓜屑煮、ナス揚げだし、ふきの煮付け、こんにゃくおでん、、、これって今でも食べてるおかずですよね?

江戸中期まで庶民は朝飯前に一仕事終えてから朝食、そして仕事の合間に昼食を取り、夜は帰宅後すぐ寝てしまうので夕食を取らない、一日二食生活をしていました。その後、なたね油の生産量が増えたことで夜でもあかりを灯すことができるようになり、夜遅くまで仕事をするようになると夕食も食べるようになりました。

単身赴任、独身男性の食卓

外食産業が盛んだった江戸時代も庶民レベルの単身者は、さすがに毎日外食とはいかなかったようです。 そんな彼らを救ったのが「煮売屋」と呼ばれる、お惣菜屋さん。行商の売り子さんから好きな分量だけ買えば良いので、楽チン。ちなみにこの煮豆屋はその後発展して、居酒屋となります。

食材は行商から買う

冷蔵庫のなかったこの時代、食材は街を小売りして歩く行商から買うのが必要な分だけ買うのが一般的でした。朝食用にしじみ売り、納豆売り、昼時には煮豆屋、青菜屋、夕時には煮売り屋が。今では行商といえば焼き芋屋くらいしか見かけませんが、その代わりコンビニやミニスーパーが街のあちこちでお惣菜やお弁当を扱っていますし、ネットスーパーなどの宅配サービスも充実していますね。それにしてもこんなに食べ物が手軽に手に入れられるようになって、便利な世の中になったもんだと思っていましたが、お惣菜量り売り行商が江戸時代からいたと言うのはビックリです。

西の鯖街道、東の鮎街道

福井県の若狭湾でとれた魚介類(主に鯖)を京都まで約76kmの道のりを一昼夜かけて運んだ道は、鯖街道として有名ですが、江戸にも鮎街道とは呼びませんが似たような制度があったそうです。当時の最上級とされた鮎は玉川(多摩川)で獲られたもので、それらはその日のうちに甲州街道をひた走る「鮎かつぎ」によって鮎問屋のあった内藤新宿まで運ばれました。距離は約40kmと鯖街道の半分、ほとんど下りか平らな道なので鯖街道ほど過酷ではなかったかもしれませんが、グルメな江戸っ子のお腹を満たすため、夜通しでも新鮮なうちに運ばれたと言う逸話に食いしん坊日本人のルーツを感じます。

外食大好き、江戸時代の日本人

当時の江戸では人口100万人に対し、7,000軒もの飲食店があったそうです。飲食店といっても屋台のような露店が多かったようですが、大きなお店もありました。江戸で特に多かったのはそば屋、居酒屋、小料理屋、うなぎ屋など。江戸後期になるとすき焼き屋(山鯨)などもオープンしたとか。現存する老舗の中には江戸時代創業の「駒形どぜう」「玉ひで」が有名です。大きなお店ではいわゆる懐石料理が食べられたそうです。

ちなみにこれらの飲食店ではテーブルはなく、お料理を載せたお盆を畳に直に置いたり、小さな台(いわゆる御膳)しか使っていませんでした。今ではなかなか見かけないこのスタイル、今でも守られている少ないお店は伊勢の赤福本店でしょうか。

伊勢赤福本店は畳の上に赤福をのせた盆を直置き

伊勢赤福本店は畳の上に赤福をのせた盆を直置き

お江戸のファーストフード代表格は天ぷら、寿司、そば

庶民の外食メニューとして人気だったものに天ぷら、これは魚の切り身を刺して揚げたものに限り、野菜は揚げ物などと呼ばれました。他にはにぎり寿司、おでん、そば、鰻丼、深川めし、いなり寿司など多岐にわたっていました。

お酒もよく飲む日本人

現代の日本人が飲むアルコール飲料を人口で割ると一人当たり年間約70リットルだそうです。ただしこの数字には老若男女、赤ちゃんまで入っているそうなので、実際に成人が飲んでいる量はもう少し多いでしょう。江戸時代の日本人が飲んでいた酒量の正確なデータはありませんが、当時酒どころのあった伊丹、灘、池田などから江戸へ入ってきていた酒量を江戸の人口で割ると一人当たり年間54リットル。これには地元で作られていただろう、どぶろくが入っていないので、一人当たりが飲んでいた酒量は現在より多かったかもしれません。上方(大阪方面)下りと呼ばれた日本酒にも番付があり、今ではあまり聞いたことがないお酒が並びますが、種類はとても多い

江戸時代の日本酒番付

江戸時代の日本酒番付

江戸の食文化まとめ

外国人にどう説明する?江戸の食文化、と言う切り口で見てきましたが、一言でまとめると「今とそんなに変わらない」と言うのが感想。語弊がありましたね、パン、バター、パスタ、ワインなどに代表される、いわゆるカタカナ料理は古い文献を見なくても海外から伝えられたとわかります。さすがにこれらの食事は当時はなかったのはわかりますが、しいて言えば卵、牛乳が今より高級だったのかなと言うくらいで、それ以外は同じ野菜を通年食べられると言う以外、現在の家庭の食卓や居酒屋メニューでおなじみの食事が多い

江戸時代とは言っても江戸後期となるとわずか150年前くらいなので、そりゃそうかと思うものの、驚いたのは献立の多さ、食材の豊かさ、そして庶民の生活の豊かさ、でしょうか。これまで、江戸時代というとなんとなく極貧なイメージがありましたが、地方はともかく江戸市街では割と豊かだったのかなといった印象です。ちなみに今日の我が家の朝食お献立は、納豆味噌汁、玄米、梅干しでした。ウチは江戸時代か!?

お味噌汁と納豆

豆乳入り御御御付け(おみおつけ)と納豆、我が家の定番メニュー

参考文献:
 

補足文献:
学校教育:男女共学か別学か・・・江戸時代の場合