8ヶ国語を話すマルチリンガルの個人ブログ

神社にお詣りするとは

お正月とあって、初詣にと神社に参拝に行かれた方も多いと思います。神仏とか興味なさそうなイメージです、とよく言われるのですが好きです。というかよくお詣りしています。お正月に限らず、何かイベントがある際は必ずお詣りしますし、新しい場所へ行った際には大抵近くの神社にご挨拶します。

もともと奈良県出身なので、小学生に入った頃から遠足や社会科見学の度に神社仏閣、古墳を訪れていました。祖父母の自宅には神棚、仏壇が祀られ、事業を長くやっていた祖父は自宅近くの八幡宮創建に尽力された方でした。そんな話を伝え聞いても、小さい頃は「ふーん」くらいな感じでしたし、毎年毎年東大寺やら法隆寺やら石舞台古墳やらに行っても「古くて黒い建物だなぁ」「ただの石じゃん」くらいにしか思っていませんでした。

初めて宗教に興味を持ち出したのは、17歳の頃にイギリス留学に行った時です。公立の学校でしたが、節目に教会のミサに参加するという初めての経験をしたり、クリスチャンの友人と接したのがきっかけでした。政教分離の日本では公立学校において宗教に関する授業を受けることがありませんし、社会見学では行くものの神社やお寺に参拝に行くことはありません。それがイギリスの公立学校では学期始めと終わりに必ずミサに出かけるのですから興味も湧いてきます。また、それまでクリスチャンとは敬虔で品行方正といったイメージがあったのですが、17歳というのに週末になるとお酒を飲んでクラブに出かける友人達を見て「クリスチャンとは言っても普通の人間だよね」と改めて気づいたことを覚えています。

帰国して外国語大学に入ると宗教学という授業がありました。1学期間に世界五大宗教であるイスラム教、ユダヤ教、キリスト教、仏教、ヒンズー教を学び、学期の最後に課題として神道についてまとめた小論文を提出する、と内容でした。英語で受けた授業と言うこともあり、聖書の引用が多い教科書はほとんど理解できませんでしたが(笑)イスラム教、ユダヤ教、キリスト教はルーツが同じという事、ほとんど全ての宗教で共通して「愛」が大事だと説いてる事などが分かりました。神道について書かれた文献が少なすぎて、課題がなかなか進まなかったのには困りましたが、6つの宗教について概要を学んでみて、もし自分がどれかひとつを選択するなら「神道」だろうなと思いました。他の宗教では、あれはダメ、これはダメ、毎日毎週お祈りしなさい、とあれやこれや言うのに対して、神道では全てにおいて「自由」だったからです。典型的なティーンエイジャーでしたね(笑)

一神教と多神教の違いを知ることで、世の中で起きている多くの紛争や戦争が一神教ゆえに起きていることも何となくわかりました。仏教や神道と言った多神教に馴染みのある日本では「あら、この神様ご利益ありそう。私たちの神様にしちゃおう!」(と古代の人が言ったかどうかは分かりませんが)と取り込んでしまうのに対し「私の神様の方が、あなたの神様より優秀なのよ」とケンカしているようなものだと理解しています。(曲解です。実際にはもっと複雑です、当然ですが)七福神と言えば知らない日本人はほとんどいないと思いますが、7体の神様のうち日本古来の神様は1体だけ、残りの6体は中国やインド由来の神様なのはご存知でしょうか?このように、アジアで信じられている宗教は多神教なので、いいなと思う神様がいらっしゃったらケンカするどころか、どんどん取り入れて言ってしまうのでほとんど宗教戦争がありませんでした。そのため歴史で十字軍の遠征と習ってもピンと来なかったのが、一神教だからと考えるとなんとなく理解できます。

話が逸れました。日本で世界五大宗教と神道を浅く広く学び、宗教学というよりも哲学に興味を持ち始めた私でしたが、哲学ではお金になりませんので、その後進んだアメリカの大学ではITを専攻しましたが、その留学先というのがユタ州でした。ユタ州と言えばモルモン教の聖地ですから、もちろんちゃんと学んでいきました、留学前に。

結果的にいろんな宗教について学ぶ機会があったのですが、どれかに入信するということはありませんでした。宗教であろうとなかろうと、他人にあれやこれやと指図されるのは好きではないし、自分以外の誰か(何か)の言葉を鵜呑みにするのではなく、常に自分で考えて行動したいと感じたからです。ですが、旅行などで教会や寺院を訪れるのは好きですし、パワースポットブームに乗って諸外国の「聖地」と呼ばれるところにも20代の頃から行きました。身近なところでは高尾山や富士山、遠いところではストーンヘンジやマチュピチュまでも。

30代を過ぎると自分のルーツや自分とは何か、について考えることが多くなりました。20代半ば頃から仕事に邁進しては体調を崩す、を何度か繰り返して今の生き方が自分に合っていないのではないかと考えたのです。そんな時によく訪れていたのが高尾山薬生院でした。都心から30分程度と離れていないのに自然豊かで癒されに行っていたのです。小さい頃によく神社やお寺に行っていたことを思い出し、何かあるとボーッとしに高尾山や近くの神社に行くようになりました。難しいことはよく分からないけれど、お寺や神社は心が落ち着くところに多くあるようです。よく行くようになるとやっぱりそのルーツが気になってきます。大学時代に小論文を書いた時にはまだよく分からなかった神道について、これまではネイティブアメリカンのような自然崇拝と理解してきましたが、これだけ長く親しまれるには何かあるはず、と。

神道には経典と呼ばれるものがありません。祝詞はあるけれど、神様がああしなさいこうしなさいと言った他の宗教にはある聖書のようなものが。だから遺されているのは、言い伝え、つまり口伝の物語がほとんど。数少ない「読み物」のひとつが古事記ですが、がんばって読んでもやっぱりイマイチよくわかりません(笑)分からないともっと更に気になるのが世の常です。それであちこちの神社にお詣りしてみました。プチ巫女修行なんかもしてみました(笑)

そんな生活を数年続けて来てなんとなくわかったというか、各地各所にある神社に共通しているただひとつのことに気づきました。

それは、ケガレを払う、です。

神社に行くとまずお清めをします。ケガレのことを汚れや穢れと読む人が多く、事実私もお清めをしたり、お祓いをする行為は私たちが汚れているから、神社とは神様も出入りする神聖な場所なのでキレイに保たなければならないから、と理解していました。それも当然そうだと思うのですが、最近気がついたのは、ケガレとは雑念、思い込み、邪念などではないかな、と。

仏教では「無」や「空」が真理だと説いていますが同じ世界かもしれません。お寺に行くとお経を唱えますが祝詞は経典よりも若干手に入れにくいのが原因か、神官の方が詠むものと決めていたので今頃気づいちゃいました。神道も仏教も共通なのは、神は自分の中にいるということ。なので心を無にすれば、やるべきことが自ずと心の中に現れる。最近メディテーションが流行っていますが、古代から日本では心を無にするために祝詞やお経を唱えていたのかもしれませんね。

最近、人と話していてサウナが話題になりました。ここ数年、若い人の間でもサウナが流行っているらしく、夜遅い時間に行くといっぱいで入れないこともあるそうです。常々サウナの何がそんなに良いのかわからない私は、若者代表の彼に質問をぶつけてみました。すると返って来たのが「マサエさん、サウナは一種のメディテーションですよ。暑い!冷たい!暑い!冷たい!!を繰り返して、サウナから出た後ベンチに座って、ふー、と息をつく時は“究極の無”の状態になるんです」という答えでした。なるほど!汗と一緒に文字通り体の中の“汚れ”も流せてさぞかしスッキリすることと思います。サウナでも同じような効能(?)があるようですが、神社もなかなかいいと思います。

神社についてよく分からないという方には、この2冊が断然オススメ。
 

古神道数秘術研究家でもある中井耀香先生の『神様にごひいきされるすごい神社参り』は上級者向け。時には優しく、時には厳しい畏れ多い神様とのお付き合いの仕方が学べます。中でも自宅を中心とした結界の張り方や具体的なお賽銭の金額など、これまで誰も教えてくれなかった神社御作法について書かれているのはありがたいです。

リュウ博士の『成功している人はどこの神社に行くのか』は初級〜中級編。博士というだけあって理系x神社を掛け合わせた画期的な1冊となっています。神社お詣りと人の器の関係性など、お詣りを生活に取り入れてビジネスとプライベートで活躍したい方は、本書に書かれた神社巡りをされると良いかもしれません。

どちらも主要な日本全国神社マップが綴じられていて、旅行や出張に行く際にお持ちいただくと、近くの神社を見落とすことがないでしょう。今年まだ年始のご挨拶に行っていないという方は、ぜひこの本を読んでから行かれてみてください。