毎年セミがミンミン大合唱を始め、八百屋に無花果が並ぶと靖国を想う。
もちろん、私は戦前世代ではなく、戦争を知らない子供たちの次の世代だ。
なぜ8月になると靖国を想うかというと、九段の地は祖父との思い出の場所だからだ。
目次
就職して東京で一人暮らしを始めた夏、大阪に住む祖父が突然一人でやってきた。
「お盆やし、嫁さん(妻)にも休ませたって」
同居する(祖父の)長男に言われ、奈良に住む(祖父の)長女夫婦である私の両親の元に滞在して数日。
「せっかく(三人揃ったん)やし温泉でも行こか?お金出したるで」
車で1時間半ほどの温泉ホテルを調べると、お盆のかき入れどきと言うこともあり、予算は10万円以上。
祖父:「こんな出すんやったら、(東京に住む)マサエのとこ行けるで」
両親:「そうや、行ったらええやん」
体よく、両親に祖父のお守りを押し付けられた訳だが(笑)、これが大正元年生まれの祖父とじっくり過ごす一週間のきっかけだった。
宇治茶を栽培する農家の三男坊として生まれた祖父は、丁稚として働いていた呉服問屋の計らいで、大阪堺の地主一家に婿養子として入る。
実家を出ても兄弟仲は良く、家業そっちのけで村長だった長兄や長兄家族をサポートし、茶問屋起業した弟の面倒を見、原爆で焼け野原となったヒロシマに姉を探しに行くような面倒見のいい人だった。
村長として何期か勤め上げると、勲章が授けられるそうです。若い頃は、当時日本の植民地だった台湾や朝鮮半島へも営業に出かけていったと言う祖父。晩年病気をしてからは長い旅が不便となり、東京へは勲六等を受賞するため上京した長兄に付き添って以来、10数年ぶり。
迎えに行った東京駅から、当時住んでいた世田谷までも、物珍しそうに楽しんでいた様子が記憶に残る。
外資系銀行勤務の私にお盆休みはない。
来る前からそれは伝えていたけど、それでもいいと言うので。
「一人で出かけるのも不安」と日中はほとんどテレビを見て家で過ごしていたが、近所のスーパーへは毎日出かけ、帰宅したらホカホカ炊き込みご飯にお味噌汁が用意されていた。
不安だらけの海外での一人暮らしから帰国後も、親戚・友達が誰もいない東京暮らしで知らずしらずのうちに溜まっていた孤独感がほっこり癒され、口も滑らかになる。
祖父の丁稚としての初任給(一円五十銭!)の話から、休みの日の過ごし方(映画見て、かけ蕎麦一杯食うのみ)など、夜は昔話を好んで聞かせてもらった。
週末は箱根か日光か。
そもそも「温泉に行きたい」から始まった「おじいちゃんのひとり旅」やったもんなー、なんて思いつつ、本人に「どこへいきたい?」聞くと、「せやな、やっぱり靖国神社に行ってみたいな」と即答。
「靖国なんて電車一本で10分やけど、ひとりでも行けるんちゃう?」
いざ一緒に行ってみると、九段下から靖国神社までのなだらかな坂道が80代も半ばを過ぎた祖父には、すごくツラそうだった。
戦後の混乱時、食べるものが何もなくて闇市で売れるマツタケを掘りに、大阪堺から実家山城まで70km近くを歩いて(ほんまか?)何度も往復したという祖父は、足腰がとても丈夫で、92歳で亡くなる当日まで車を運転していたほどだ(ちょっと危なかったけど)
そんな祖父は平らな道は、なんなく歩くが、坂や階段はしんどい。おかげで、都内のエレベーターに詳しくなった。
夏真っ盛りの8月17日、雲ひとつない九段坂を登って訪れた靖国神社は、がらんとしていた。
昨今、この時期に靖国参拝をする人が増え、週末ともなると初詣並みに混雑する靖国だが、その頃はもちろん、参拝者はいるものの、まだ人もまばらだったのだ。
春には、敷地外の千鳥ヶ淵と共に都内有数の桜の名所としても知られる靖国。
桜の木の一本一本にはプレートがくくりつけられていて、その多くは「戦友会」による献木だと知ったのはその日。
同じ師団に所属しつつ、生きて帰ってきた方達が、戦友のことを想って戦後植樹したり献木した桜が靖国神社には1000本近くも植わっているのだ。
第二次世界大戦中、祖父は二度召集されたと聞いた。
まだ開戦間もない頃、一度目に入隊した祖父は訓練を受けるが、数ヶ月の訓練終了後にいわゆる卒業試験があった。
訓練終了後の試験結果で成績優等者二名は、内地に残り、後進を育成すると聞かされていた祖父は「戦争に行って人を殺したくない」と、「消灯後も唯一電気がついてた便所で夜更けまで勉強した」と言う。
晴れて成績優等生となった祖父はめでたく教官となり、ついに日本から離れることはなかった。
だが、それは同時に、多くの知人や友人を戦地に送り出したということ。
その日も多くを語ることはなかったが、ジリジリと真夏の太陽が照りつける中、桜の木に掛かっているプレートを、一つひとつじっくりと読んでいる様子が印象的だった。
炎天下を1時間以上も歩いたし日陰で涼む場所はないかしら、と見渡すと、「特別正式参拝受付中」の文字が目に入った。
聞くと、三千円以上で「正式参拝」なるものができるという。
今でこそ、ご縁をいただいた土地の神社では「正式参拝」をすることが多い私も、当時はまだよくわかってなかった。
とりあえず、日陰の室内で(ここ重要)ゆっくりお参りができるのね、祖父にとっては最後の「靖国参拝」となるだろうし、くらいな気持ちで申し込んだ。
宮司さんのご案内で暗い建物を進むと、たくさんの人がお賽銭をする拝殿の奥にある本殿に通される。
「小泉さんが(元首相)テレビで参拝してはるとこや!」
感動ポイントが完全にズレていた(笑)が、祖父としては当時の首相がSPを引き連れ参拝した、その場所と同じ本殿で参拝できたことが実に印象的だった、ようだ。
その後も亡くなるまで、夏になると毎年「靖国の昇殿参拝(正式参拝)」の話題を繰り返し、していた。
ちなみにこの滞在中、ピンピン元気で毎日夕食を作ってくれたが、寿命的にもう余命いくばくもなさそうだった祖父に「死ぬまでにやりたいことリスト」を聞き出した。
「せやな、伊勢神宮にも行ってみたいし、青函トンネルってやつもいっぺん見てみたいな、、」
その翌年、大阪から近い伊勢神宮を両親のアシスト付きで訪れたのを皮切りに毎年、祖父と旅をした。
いよいよ残りは青函トンネル、旅の計画をしようとしたら「いや、オーストラリアのナオミ(姉)に会いに行きたい」
90歳を過ぎると(正しくはほとんどが70歳まで)加入できる海外旅行保険がなく(2004年当時、2021年の現在は年齢制限なしの保険もある)、直前まで行けるか不安だったが行ってしまえばオーストラリアの方が年寄りには優しいのだ。
空港だけでなく、動物園でも植物園でも、係員の方に車椅子を貸し出してもらい声をかけてもらい、コアラを抱っこしカンガルーに餌やり体験をする祖父の写真が毎日姉からメールで送られてきた。
92歳のある日、家の近くのスーパーで倒れて意識を失い、そのまま亡くなった祖父のお葬式。
棺桶には祖父の部屋に残されていた、オーストラリアで買ったカンガルーとコアラのぬいぐるみを入れた。
小さい頃はただ厳しく怖かった記憶しかない祖父、留学中に「おじいより」と結ぶハガキを送ってくれた祖父、砂利道の参道を借りた電動車椅子で楽しそうに進み「冥土への土産」と伊勢神宮参拝した祖父、東京からの帰りに関空行きのチケットを取ってあげたら「関空ははじめてや」と喜んでいた祖父、オーストラリアの話をいつもしていた祖父、両親の家のローンを私が組むことになった時こっそり内緒でお金をくれた祖父。
毎年この時期になると、祖父のことを思い出す。
晩年、一緒に過ごしたいろんな思い出があるけれど、やっぱり靖国で「小泉さんと同じ、テレビで映ってはったところ(本殿)へ上がってお参りしたわ」と無邪気に喜んでいた祖父が思いだされて、笑い泣けてくる。
死は必ず全ての人に訪れるから、早過ぎることはない。「死ぬまでにやりたいことリスト」を一緒に作ろう。そして家族で共有し、予算を組んで、計画、実行する。
今年も祖父の大好物だった無花果がそろそろ店先に並び出す。初物が出てきたら、両親と一緒に「死ぬまでにやりたいことリスト」を更新しよう。